傷つける権利/傷つく権利
2023.09.27 マガジン中目黒にあるバーで、とある方と深夜1時過ぎに交わした会話から着想を得たことを綴っていこうと思う。
理想の社会を表現する言葉として、多様性、インクルーシブ、共生社会などの言葉が使われるようになって久しい。その中で、よく話題に上がる、障害者の方にとって生きやすい社会にしようという論。障害者の方への差別や、障害故に生じているバリアは取り除かれるべきということにもちろん異論はない。社会全体のISSUEとして、粛々と私的な活動、公的な活動の両輪でよりよい社会の実現に向けて、一人ひとりが出来ることを進めていくことが良いと思う。
障害者と健常者の関係について、少し自分の中でひっかかっていることがある。
お互いの距離感の問題である。
言葉を選ばずに言うと、障害者に対する過度な遠慮/配慮のようなものを感じてしまうことが多い。(もちろん、合理的な配慮が必要なことは重々承知している。)
何かの調査報告では、人は車いすに乗っている人に道を尋ねられた時に、健常者に道を尋ねられた時以上に“丁寧に”道案内をする傾向があるそうだ。この話を聞いた時に僕はドキっとした。道を尋ねられたことがあるかどうかの記憶は定かではないが、確かに車椅子に乗っている人に対して、過剰に丁寧な話し方をしてしまうことは思い当たるフシがある。
僕の中にある「障害者は守られるべき、自分より立場の弱い方」という無意識のバイアスによって生じていることだと思う。そして、多くの人がそういったバイアスを持っているのだろう。「障害は特徴であって決して障害ではない」この論も個人的にはしっくりこないのですが、(しっくりこない理由は、社会生活における何らかの障害は障害者、健常者に関わらず誰しもが持っていて、特に公的な支援が必要ということで便宜上、“障害者”という括りを設けているだけであるので、障害を障害と認識することが多くの人が生きやすい社会作りの一歩と僕は考えるからである。)仮に、障害をただの特徴として捉えるのであれば、もっと、障害者に遠慮せずにその特徴について聞いたりすればいいのではないか?と思う。
「目が見えないのってどんな感じですか?」
「耳が聞こえないのはどんな感じですか?」
「拘りが強すぎるってどんな感覚ですか?」
もっともっと興味をもって遠慮/配慮を排除して接する態度を身に着けることが真の共生社会の実現にとって必要だと思う。相手の困りごとを知らなければ、解決策も導きだせない。
そのような態度が取れない背景には、障害に触れることはタブーであるという認識があるのではないかと思う。更に言うと、タブーに触れて相手を傷つけてしまったらどうしよう?という怖れがあるのではないか。
いや、待ってほしい。
人と人がコミュニケーションをする中で、“誰も傷つけない”などということはあるだろうか?それこそ、人はそれぞれ多様な背景があり、多様な価値観を持っている。傷つくポイントだって違うだろう。(履歴書に性別を書かせない、このような動きを否定するつもりは全くない。)完全に人を傷つけないように気を配って生きるのなんて無理だ、と僕は断言する。
例えば、「母の日ギフト」のコマーシャルによって母親がいない人が傷つくかもしれない。
仲の良い友人との会話の中で、僕が傷ついている時だってある。
我慢出来ない時には、「その話題は止めて欲しい。」と伝えるが、それほどでもない時は適当な作り笑顔で受け流す。そうやって社会は成り立っているのだと思う。
“いつも優しく愛想良く、なんて、やってられないよ。理由はかんたん、時間がないんだ。”
スナフキンの言う通りだと思う。
少し話が逸れてしまったが、障害者に対して過剰に、“傷つけていけない”と思うのは不健全だと思うし、そんな態度では真の共生社会なんて創れない。もちろん、侮蔑する態度はとるべきではないが、過度な遠慮/配慮を外して、時には傷つけ合って、ありとあらゆる言葉を費やし、お互いの分かり合えないを超えていく、そうやって社会を進めていくしかないのだと思う。
人は人を傷つける権利を持っている。同時に傷つく権利も持っている。これは健常者だろうが、障害者だろうが、マジョリティだろうが、マイノリティだろうが同じである。
この文章が誰かを傷つけていたのなら、ごめんなさい。
人や社会は、いまよりも、もっとよくできる。
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