人間性尊重型大家族主義経営を実践されている西精工さんを訪問して

2021.07.06 マガジン

COOのFです。

先日、「いい会社」フィールドワーク@徳島に参加しました。

体験が素晴らしすぎて、僕の拙い文章ではその多くを表現出来ないかもしれませんが、今回は徒然なるままに言葉を紡いでいこうと思います。

一歩踏み入れた瞬間、そこは亜空間ではないかと思うほどの別世界でした。

驚くほどのホスピタリティでおもてなしをして下さる西精工の社員さんたち。
入口での気持ちの良い笑顔での挨拶、ちょっとした移動の時に傘を差しだして下さり・・・なぜにこれほどまでに。

そして朝礼、発言される方ももちろんなのですが、他の方の傾聴の姿勢が素晴らしく、そして誰も発言者を否定しない。心理的安全性という言葉を簡単に使ってしまう自分がいるのですが、ここまで体現されていると、改めて、その言葉の重みを実感させられます。

設計の妙と言ってしまうとそれまでなのですが、社員の方の意識の醸成とそのための仕掛け、ソフトとハード両面を融合したアプローチが功を奏しているのだと推察しました。

その背景には西社長がどうすれば社員の方が活き活き出来るかを本気で追求されようとする想いがありました。(大家族主義経営は「しんどい」と吐露されたことも強く印象に残っています。)

次は、工場見学。
工場内でご自身の仕事の説明をして下さる姿がとても誇らしげ、他の方も対寧に頭を下げて下さる。不思議な程やらされ感がない姿に何度も目頭が熱くなりました。心から、相手を想う気持ちがないと、あれほどまでの対応は出来ないでしょう。(逆に演技だったら、むしろそちらの方が凄いなと思ってしまいます。)

西社長のお言葉「西精工は社員を大事にする会社ですが、大事にされるのではなく、社員が自分以外の誰かを幸せにするのです。」という主旨の発言が胸に刺さります。

西社長のお話のパートでは「‘‘ワーク・ライフ・バランス‘‘という言葉が嫌い。」という西社長の言葉に強く自然と強く頷く自分を自覚しました。僕の常日頃の違和感を表現して頂けました。

ワーク・ライフ・バランスという言葉の前提には仕事はお金のために、我慢してするものという意識が横たわっている気がしてならないのです。そもそも、仕事とそれ以外の生活を切り分けるという考えが多くの人にとって無理があるのではないかと感じます。

何気ない会議での発言もルーツをたどれば、幼少期の体験にいきつく、なんてことがあると思います。人間って簡単に割り切れるほど、器用ではないと思いますし、そんな人間だから愛おしくなってしまいます。

その人の全人格で仕事に取組む、そんな環境で仕事がしたい。これは僕の想いとして強烈に再認識させられました。‘‘should‘‘ではなく、‘‘want‘‘(僕はとても、「べき論」が強い人間であると自覚していますし、周囲からもそう思われているようです。「べき論」を振りかざすことで、これまで何とか生きてこられたのもまた事実です。)

そろそろ、「べき論」を卒業しよう。‘‘自分がどうしたいか‘‘をもっと大切にして生きていこう。

そんなことを考えていると特に会社組織の中で振る舞う自分の中に‘‘うざい奴と思われることへの恐怖‘‘があったことに気付くことが出来ました。恐怖に対して、どのように対峙していくのかは分かりません。その恐怖を乗り越える自信があると言えば嘘になるでしょう。でも恐怖に気付けたことは良かった。

「べき論」を振りかざすと、人との接し方も紋切り型になってしまう。唯一無二の‘‘人‘‘という存在とどう接するか、そのことこそが人間の最も創造的な活動のはずなのに。

効率的な運営、合理的な決断ではこの創造性を解放出来るはずがありません。でも今は、ある意味、共同幻想に由来する「べき論」が生み出す分断(細かくは説明しませんが、この分断には幅広い解釈があります。)を心地よく思う人が多いのも事実だろう。それでも自分が信じた行動をとる。例え、認められなくてもいい。何十年後かに、「Fが何かそんなこと言っていたな。」と思ってくれたら御の字。

良きエネルギー循環の起点となりたい、その想いが強くあります。

そんな断固たる決意の矢先ですが、僕はとても弱い人間です。
時々、精神のメンテナンスが必要なので、西精工さんを訪れることは定期的なイベントになる予感がしています。

自分の弱さ故、‘‘べき‘‘が顔を出すこともあるでしょう。それは、自身の世の中を見る観念、メガネ、フィルターそんなものの状態が今、どうなっているのかを知らせてくれているのだと思い、その時は‘‘べき‘‘も可愛がってやろうと心に決めています。

あぁ世界は素晴らしい。