
もっと言葉に怯えよう
2025.06.18 メンバーブログ言葉を発する時の「怯え」が足りないと感じることがしばしばある。
自分にも、他者にも。
こんなことを言うと、昨今の過剰なコンプライアンス重視やポリティカル・コレクトネスを毛嫌いされるかもしれないが、それでも思うところがある。
その代表例が「他責思考」だと思っている。
「他責思考」という言葉を使うとき、もっと「怯え」があってもよい。
割と気軽に使っているように感じる。
「他責にするな」「あいつは他責だ」と、日常的によく耳にする言葉だ。
採用面接の場面でも、「他責思考」だという理由で応募者が不合格になることがしばしばある。
他責に対して自責という言葉があるが、他責思考の人と自責思考の人がいるわけではない。
自分の中には他責な部分と自責な部分が混在しているにもかかわらず、「あいつは他責だ」と切り捨てる場面が存在する。
極論を言えば、目の前の相手が誰であっても、質問などを操作すれば、その人を他責思考だと断じることができてしまう。
上司と部下、採用面接における面接官と受験者など、立場の強弱がある場面では、弱い立場の者に「他責思考」というレッテルを貼ることは容易である。
目の前の人に「他責思考だ」と言うならば、その人の他責思考を変えられていない時点で、その言葉を発する者の他責な部分が浮かび上がってしまう。
「他責思考」という言葉が強調されればされるほど、社会としての「自己責任論」が強調されることを懸念する。
「自己責任論」が蔓延すればするほど、社会の福祉が脆弱になってしまうことは、海外の事例を見てもよく分かる。
(アメリカの福祉は相当に厳しい。)
福祉が脆弱になった社会は、お金を稼ぐ能力に長けていない人にとって非常に生きづらい。
AIが発達し、世の中の職業構成が変わりつつあるが、知的レベルが高い人が高い報酬を得る傾向があるのが現実だ。
能力の差は軽微で、努力の差が大きいという主張をする人もいるが、能力の差は大きい。
『ケーキの切れない非行少年たち(宮口幸治著)』をぜひ読んでほしい。
自分が苦しまなくてよいことで苦しんでいる人がいることを知ることは、優しい世界を作る上で非常に大切なことのように思える。
自分の発する言葉は自分の人生(コンテンツ)を脚色する。
「他責にするな」「全ての事象は全て自分に責任がある」といった厳しい言葉を自分に向けて、自分の人生を盛り上げることは大いに結構だと思う。
しかし一方で、自分が発する言葉は他者にとっての環境を作ってしまうことも忘れてはいけない。
発する言葉が世の中のアジェンダを設定し、世界観を作っていく。
言葉に「怯える」ことは、他者と共存していくための重要なお作法だと思う。