
「知らない幸せ」と「知る愚かさ」の狭間で
2025.05.26 マガジン世の中には知らない方が幸せなことがたくさんある。
例えば、ブータンは「世界で最も幸福な国」として知られていたが、スマートフォンの普及により、その幸福度が下がったという話が有名だ。
スマホによって情報が簡単に手に入るようになり、外の世界との比較が生まれることで、人々は自分たちの生活への満足感を失ってしまったと言われている。
情報を得ることは便利であり、時に人生を豊かにする。
しかし、その一方で「知らない方がよかった」と思う瞬間も確実に存在する。
この「知ることが必ずしも幸せをもたらすわけではない」というテーマは、聖書の知恵の実のエピソードにも通じるものがある。
アダムとイブがエデンの園で蛇にそそのかされ、神に禁じられていた知恵の実を食べることで、彼らは善悪の分別を手に入れた。
しかしその代償として、楽園を追放され、永遠の安息を失った。
この物語は、「知る」ことが人間にとって祝福であると同時に呪いでもあることを象徴している。
無垢な状態でいることの幸福と、知識を得ることで背負う苦悩。
その二つの間で揺れ動くのが人間なのだ。
それでも、「知る」ことへの渇望は人間の本能のようなものなのだろう。
これはとても愚かであると同時に、チャーミングでもある習性だと思う。
漫画『チ。‐地球の運動について‐』では、知識を求める人間の情熱が熱烈に描かれている。
地動説を追求する者たちは、命を賭してまで真理を求める。
彼らが求めるものは、必ずしも自分たちの生活を豊かにするものではない。
それどころか、知ることで不都合な真実に直面し、苦しむこともある。
それでもなお、人間は「知りたい」と思ってしまうだ。
その姿は滑稽でありながら、どこか愛おしい。
小説『ライ麦畑でつかまえて』では、主人公が「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えたんだ」と発言する場面がある。
彼は世界に嫌気がさし、自分を閉ざそうとする。しかし、結局それは叶わない。
この世界は最低だと言い切るにはあまりにも魅力的すぎるのだろう。
厭世的な態度を取ろうとしても、完全に世界を拒絶することは出来ない。
人間は、どれだけ絶望したとしても、どこかで世界に惹かれてしまう生き物なのだと思う。
愚かでチャーミングな知的好奇心や探求心は、時に不都合なものを暴き出す。
そして、暴いてしまったものを直視し、そこから新たな営みを始める。
人間の歴史に到達点や均衡点などないのだと思う。
何かを知ることで傷つくことがあっても、人間はその知識を元に新しい価値を生み出そうとする。
真理を追い求める姿勢は、時代を一歩前に進める原動力になる。
知らない方が幸せだったかもしれない。
しかし、知ることで新しい可能性が生まれる。
人間はその矛盾の中で生きている。
聖書のアダムとイブがそうであったように、知ることの愚かさを理解しながらも、それを愛さずにはいられない。
それが人間という存在の魅力なのだろう。
原罪を背負いながらも、それでも私たちは生き続け、知り続ける。
その営みは正に人間賛歌である。
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