
広げる希望、たたむ決断
2025.05.12 メンバーブログ風呂敷を広げる。それは簡単だ。
大きく広げて、そこに夢や希望や欲望を詰め込む。
広げれば広げるほど、そこには可能性が生まれる。
新しい仕事、新しい人間関係、新しい趣味、新しい街、新しい旅立ち、新しい認識。
広げるたびに、世界は確実に広がっていく。
広げるという行為は、未来を信じることそのものだ。
問題はその先だ。
広げた風呂敷は、いつかたたまなければならない。
たたむというのは、決断だ。
何を残し、何を捨てるのかを選ぶ行為だ。
広げる時は心地が良い。目の前に広がる無限の可能性に酔いしれる。
仲間からも肯定してもらえる。
でも、たたむときは違う。
そこには痛みが伴い、そして孤独だ。
自分が選ばなかったもの、自分が手放したもの、それらを見つめることになるからだ。
広げることとたたむこと。
この二つの行為は、人生の象徴のようだ。
広げるとき、私たちは未来を見ている。
たたむとき、私たちは過去と向き合う。
どちらも必要だ。
どちらか一方だけでは、人生は鮮やかなものにはならない。
とにかく広げる、広げることに没頭する段階もあるだろう。
意識的であれ、無意識であれ。
新しいことに挑戦し、新しい人々と出会い、新しい場所へ行く。
広げれば広げるほど、自分が変容もしくは成長しているような気になる。
その感覚もある意味では正しいだろう。
実際、広げることでしか得られないものがある。
広げることでしか見えない景色がある。
でも、ある時気づく。
広げすぎた風呂敷は、重い。
ただ広げるだけでは、前に進めなくなる。
広げた分だけ、整理が必要になる。
風呂敷をたたむ段階、それは、人生の中で避けてはいけない工程だと思う。
たたむという行為は、優先順位をつけることだ。
何が自分にとって本当に大切なのかを考えることだ。
たたむのは怖い。
なぜなら、それは選択の結果だからだ。選択には責任が伴う。
選ばなかったものへの未練、選んだものへの疑念。それらを受け入れる覚悟が必要だ。
だからこそ、人はたたむことを避けたがるのだろう。
広げ続けることで、たたむことから逃げようとするのだろう。
たたむことでしか見えてこないものがある。
広げたときには気づかなかった、本当に大切なもの。
たたむことで、余計なものが削ぎ落とされ、シンプルになる。
そして、そのシンプルさの中にこそ、生命の躍動や熱狂そして、自分だけの理を見いだせる気がする。
人生は広げる段階とたたむ段階の繰り返しだ。
広げることで得られるものがあり、たたむことで得られるものがある。
その均衡が取れていなければ、人生はどこかで歪む。
その均衡を取ることが、生きる術なのだと思う。
生きるのは難しい。
広げるとき、人は未来を見ている。
たたむとき、人は過去を見ている。
そして、その両方があって初めて、現在を生きることができる。
現実に向き合い、地に足をつけて生きることができる。
広げるだけの人生は、欲望や自己欺瞞に絡めとられる。
たたむだけの人生は後悔に支配されるし、味気がない。
そのどちらにも偏らないことを自身に約束する。
自身のこれまでを振り返った時、“広げる”に偏っていた。
少しばかり後悔をしている。
若い時期に風呂敷を広げる、中年期以降にたたむ。
そうではなく、より短い期間で広げるとたたむことを繰り返す。
そうすることで、より密度が高く豊かな人生になるのではないか。
みなさんの風呂敷はどうなっていますか。