境界線について考える〜重力の井戸の底で〜

2024.09.11 お知らせ

先日、初めて対馬を訪れた。
国防の島として知られるこの島からは、天候に恵まれれば海の向こうに半島が見える。

島国日本で過ごしていると、なかなか感じとることが難しい国家の領土というものを少しは感じられた気がする。
何年か前に国境について、「勝手に人間が地球に引いたもの。それにより争いが引き起こされる。」と人間の卑しさを揶揄、非難するような誰かの発言を聞いた。当時の僕は、「なるほど、そういう考えもあるのか。」くらいに受け止めていた。
確かに有史以来、ヒトは地球の地面を奪い合ってきた。あらゆる民族、あらゆる宗教に帰属する者たちがそれぞれの最適を目指し、自分のそれとは違う者を、侵略してきた。

ただ、見方を変えれば、その行為の奥底には自分の身内を守りたい愛のようなものがある気がしてならない。そういったものがあったからこそ、ここまで人類が増え、文明を築き、地球上で最も繁栄した動物になったのだと思う。

つまり、ヒトがヒトを愛する理由も、争い合う理由も、繁栄した理由も帰結する先は共通しているのだと思う。平和や調和や均衡を模索しながら時に血と涙を流し、それを修正してまた、理想に向かう。
おそらく、定常はありえない。このスパイラルアップは人類が最期の日を迎えるまで続くのだと思う。

人間が自然の産物だとするならば、その人間が生み出した境界線も人間の産物であるし、人間が出すゴミや毒も自然の産物なのだろう。もし、人間に最期の審判が下るとするならば、それは地球が地球の調和をとるためにとった自然なシステムの運用の一旦でしかないだろう。

少し話がそれた。
193ある国の国境が希薄化、無力化する未来は十分に想定出来るだろうし、希望でもあると思う。
ただ、今は193の国があり、その分だけ国境があることで一定の調和が保たれている。争いが絶えないのは残念だが。
国家とは国民と領土の統治機構であり、自国の安全保障のために存在する。更に言うと、国防、インフラ、物流が機能していることが国家が正常であることの条件であろう。

そういえば、対馬で電気工事士の方とお話をする機会があった。自然災害などにより、停電が起きた時には、時間帯などに関わらず復旧作業の対応をしなければならないのだそうだ。そんなこともあり、島からはほとんど出られないそうだ。無慈悲な自然を相手に献身的に島の人々の生活を守っておられる。頭が下がる。国家が正常に機能しているからこそ、生きがいとは、生まれた意味とは、本当の自分とは、などの精神的な活動に興じることが出来る。

(以下は、僕の好きな小説からの抜粋。「思い出してほしい。事実として、この二十年間、大規模な停電で混乱した時期があっただろうか。蛇口から水が出ないことがあっただろうか。物流が途絶えることがあっただろうか。私の記憶するかぎり、我が国のインフラは、機能不全に陥ることなく、我々の生活を支え続けてくれた。しかし諸君、決してそれを、当たり前のことと考えてはならない。今はすでに死に絶えた人々の、自己犠牲と、献身的な尽力があったからこそ、現在も我々は文明を享受できているのだ。」)

国家を構成するシステムの一員として、国家の機能の維持のために生活を捧げる人に改めて敬意を表したい。

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